教育委員だよりNo.6

平成13年10月10日

小牧市教育委員会委員長  朝倉 義文

「モンゴルの相撲」

皆さんの家に飾ってある絵でも書でも、たいていの場合額縁がついている。何故だろう?

それらの絵や書から額縁をはずしてみると、その意味がよく分かってくる。額縁をはずされた書画はなんとも迫力がなく、間が抜けたような感じがするものだ。額装することは、外側から強く締め付けることによって、中の作品が反発して作家の主張や美意識が作品に活力を与えるのではないだろうか、と私は感じている。

昨年、外モンゴルの旅をしたとき、たまたま泊まったゲルの近くで蒙古相撲を見ることができた。日本の相撲を見慣れた私にとっては、なんとも大味な上に、刹那的臨場感に欠けるものであった。 モンゴルの相撲は枠がない大草原が舞台であるが、日本の土俵は直径15尺(約4m50cm)という局限された面積がある。

そのような極めて狭い枠の中で、力士が無限の力を如何にして瞬発的に発揮させるか、という制約上での勝負である。そうであればこそ、千変万化の技が必要となるし、それを体得していなければ勝負に勝つことはできないのである。

“柔よく剛を制す”という、体の小さい者が大きな者を倒すことも、この制約が生み出す醍醐味なのであろう。

さて、グローバリゼーションの時代についてである。国と国だけでなく、国内においても、そのために多くの規制緩和が講じられつつある昨今、教育界にも、その必然性が叫ばれて、様々な教育改革が進められている。時代に適応できない旧来の制度や理念は、当然改革していかなければならない。旧来の枠組みから新しい枠組みへと変えていかなければ、教育の荒廃は今以上に進んでいくのだろう。

その場合、心せねばならないことは、『改革とは必ずしも規制の緩和や廃止ではない』ということである。逆に、新しく規制を設けることもあって当然なのだ。そのことを見誤って、世界的なグローバリゼーションの波に翻弄されてしまうと、取り返しのつかない結果となる可能性を私は危惧している。

『子供に自由を』『子供に人権を』『子供にゆとりを』という、聞こえの良いスローガンが独り歩きをして、セルフィッシュな子供を作り上げる。『学校に行きたくなければ、行かなくてもよい』『勉強をしたくなければ、しなくてもよい』『宿題は少ないにこしたことはない』『授業をボイコットするのは仕方がない』『不登校も非行もキレるのも、病気だから専門医の分野だ』『もっとカウンセラーを、精神科医を増加すべき』等々。まさに躾に対する家庭や学校の責任が曖昧となりつつあるのが現状である。

考えると、昔でも暴力もイジメもあったし、キレる子もいた。また、現在センセーショナルなマスコミ報道がなされている子供に対する大人の虐待も多くあった。今ほどに大騒ぎしなかったのは、子供たちがやがて成長して厳しい競争の社会に出た時に、それに適応させる準備期間としての社会的黙認があったのだろうか? しかし、それらの多くが家庭や学校の内発的力学と責任とで解決されてきた。

私は、子供に大人並みの人権や自由を与えることに反対するものではない。むしろ理想的だと考えている。しかし、それに至るには、次の条件を子供たちにクリアさせることが必須の条件だと考えている。

1 責任感    2 解決力    3 自立心

即ち、自由には“責任”という代償が伴っていなければならないということを先ず教育し、そして“責任”を自覚できるレベルに達したときに自由を享受できるということを明確にすべきなのだ。“責任”を自覚できない子供の段階で多くの自由を与えることの危険がすでに多様な形で現出しているのが、現代の教育荒廃の元凶ではないかと私は考えている。

喪失していく大人たちの子供に対する最低限の正しい躾、それなのに増加していく子供の自由。子供の自由とは、大人たちの責任放棄と考えられなくもない。躾とは“責任”を教えることである。このアンバランスを是正していくことが、青少年の人材育成、健全育成への基であると思う。

すでに現代は、小中学校にすら警察権が介入しなければ問題の解決に至らない現状を、理想論者たちはどのように説明するのであろうか。躾には、教室における道徳教育も有効だが、最も大切なのは家庭における皮膚感覚で吸収できる教育であることに違いない。「一人の父親は百人の教師に勝る」という言葉があるが、家庭教育の中心は父親が担うべきことだということに言を待たない。

早い冬の訪れを肌で感じながら、荒涼とした草原の片隅でのモンゴル相撲を観戦していて、私はそんなことを考えていた。


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