教育委員だより No.13

平成13年12月12日

小牧市教育委員会 教育長 副島 孝

大崎博澄著「子どもという希望」を読む

著者の大崎博澄氏は、高知県の教育長です。高知県の職員から昨年4月に教育長になった、いわゆる行政出身の教育長です。しかし、その経歴は、かなりユニークです。定時制高校に学び、県職員になりました。その間、大崎弟の名で詩を書いたり、子どもの詩集を発行したり、エッセイを地元新聞になどに書いたりしてみえます。私が大崎さんのことを知ったのは、1年前くらいのことです。ちょうど私自身が急に教育長就任を要請され、動揺していたころのことです。あとから考えれば、こういうタイプの人が県の教育長をやられているのなら、私のような人間が市の教育長でもいいのかもしれないと考えてしまったことにも、影響したかもしれません。

大崎さんを知る人の話によれば、やさしくて、温かく、話を静かに聞いている。ちょっと涙もろくて、ひかえめで、弱いところを隠さず、安請け合いをしない。少し頑固。本人によれば、酒が心底好きで、1軒しかない行きつけのカウンター席のみの店で、寡黙で機嫌よくビールを飲んでいるハゲ頭のおんちゃんだそうです。そんな人なんだなあというのが、この本を読んで受ける印象です。エッセイが中心ですが、詩もありますし、講演の記録もあります。この講演の題が、書名にもなった「子どもという希望」です。「子どもという希望」という言葉は、実は高知こども図書館長の大原寿美さんのエッセイのタイトルから借用したものだそうです。現在は、名刺にも、この言葉を入れているそうです。

この本の中で、私が最も心打たれたのは、講演の記録です。「子どもという希望−教育改革の視点」は、先生方を相手にした講演です。この講演記録を私は1年前に一度読んでいるのですが、今はどうしても教育長という立場から読んでしまいます。もちろん誰が読んでも心打たれる内容です。まず、講演を引き受ける理由から始まります。以下、心に残った、共感できる文章を引用します。

“教育改革という大事業が正念場を迎えている時に、自分の思いを自分の言葉で語ることが、今の自分に求められている一番大切なことではないかと思うからです。私のような行政職にある人間の共通の欠点ですが…役所の言葉でしか話せないようになっております。…教育改革のうねりは、学校現場やPTAや地域から起こらなければならない。行政主導の改革では、子どもたち、親たちの心に響く教育改革はできないのではないか。”

“今問われているのは子どもたちの問題ではなくて、じつは我々大人の問題である。…子どもたちの教育をめぐるさまざまの問題も、基本的には大人の社会の在り方に原因があると思います。そこにメスを入れずして、教育というシステムだけをいじっても、すべてが解決できるはずがない。”

“今学校を中心とする教育のシステムが子どもを守り育てなければ、他に子どもたちを育てる場所がない。これまでは学校に過大な荷物を背負わせることで学校の歪みを大きくしてきたと、ぼくは思っています。しかし今、私たちは、学校というシステムに頼るしかない。そこを少しでも子どもたちにとって居心地のよい場所にしていくことに全力をあげるしかない。”

“問題が起きることは少しも恥ではない.こんな厳しい教育環境の時代です。問題のない方がむしろおかしいと、ぼくは思います。大事なことは問題の芽を明るみに出してみんなで解決の道を探ることだと思います。組織としてそのような考え方に立つことができれば、何人かの苦しんでいる子どもが救えるだろうと思います。いくつかの大きな悲劇を防げるだろうと思います。現場で、小さなサインや予兆から最善の判断をすることは無理だと思いますが、根底に<弱い立場にある子どもの味方><問題をむしこまないで明るみに出す>という心構えがあれば、子どもたちを救えるケースは増えると思います。全ての判断の基準は「子どもたちの命と尊厳を守る」ことにつきる。法律や制度や組織の都合を優先しない。先生方がそういう立場に立って下された判断であれば、結果はどうであれ、ぼくは先生を支援し守ります。…人事評価も当然、その観点からなされなければならない。問題や事件を起こさなかったかどうかということではなく、子どもたちを救う、子どもたちを守る努力がいかになされたか、その観点から「人事評価」も「処遇」も「登用」もなされなければならないと考えています。”

“子どもたちが学校に興味を見出せずに問題行動に至る源には、学力の問題でのつまずきが多いだろうというふうに思います。「学校、あるいは勉強は、おもしろくなくて当たり前」というのでは、プロの教師としては失格ではないかと思います。授業が魅力的でなければ、子どもたちに「それでも我慢してついて来い」と言えないのではないだろうか。「魅力的な授業を展開するために工夫を凝らす」こと、「いかにして子どもたちを学習に夢中にさせるか」ということはプロである先生方にとってもやりがいのある、楽しい作業ではないかと思います。管理職の先生方にはそのための環境作り、雰囲気作りをしてほしいと思います。授業が楽しければ勉強が楽しくなる。先生が好きになれば勉強も自然にでき出す。極端な言い方ですが、「<分かる>ということ以上に<楽しい>ということが大切にされてよいのではないか」というふうに思います。”

“こういう地道な積み重ねを通じて、<学校を楽しい場所にすることが教育改革だ>とぼくは考えています。主人公は子どもたちですから、当然子どもたちにとって楽しい場所ということになりますが、そこは同時に先生方や学校に勤務するいろんな職種の方々にも、また親や地域の人々にも楽しい、心安らぐ場所でなければならない。子どもたちを中心にしながら、まわりに集うみんなが楽しくなるにはどういう取り組みをしたらいいか。これは楽しくなるための取り組みですから、取り組みそのものが楽しくなくてはならないのではないかと、そういうふうに思います。「開かれた学校づくり」などの取り組みでは、取り組みそのものを楽しむ工夫をしていただきたいと思います。「また新しい仕事が一つ増える」と先生方が思うような、そういう開かれた学校づくりではいけないのではないか。むしろ、学校が抱えているたくさんの悩みをオープンにできる、そして学校の荷を少し降ろすことができる、そういうのが「開かれた学校づくり」ではないかとぼくは思っています。”

引用が多くなったのは、共感できる文章が多いからだけではありません。この本が入手しにくいことにもあります。もし現物を読んでみようという方は、書店で注文するしかありません。地方小出版流通センター扱いで出版社はキリン館です。定価は新書版176ページで税別1600円と非常に高いのです。私は講演記録だけを『たのしい授業』2001年1月号 仮説社で読んでいるのですが、今回再読して、その時よりもっと考えさせられ、勇気づけられました。

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