教育委員だより No.24

平成14年3月26日

小牧市教育委員会 教育長  副島 孝

旧小牧中学校跡地の復元整備が一部完成

小牧山の東麓にあたる旧小牧中学校跡地を、史跡として復元整備していることは、多くの方がご存知のことと思います。広い面積ですので、3つの工区に分けて、発掘・設計と工事に1年ずつをかけています。いちばん北の第1工区(旧小牧中のプールやバスケット・バレーボールコートの部分、と言ったほうが分かりやすい方も多いことでしょう)の工事が、やっと完成しました。正式には4月1日から(個人的には好きではない言葉なのですが)供用開始ですが、今年は桜のシーズンが一足早いため、ぜひこの時期に市民の皆様に足を運んでいただこうと、予定を早めて本日から公開します。

この復元整備は、各界代表の方や専門家の先生方の検討をいただきながら、進めてきました。文化庁からの補助金を多額に利用していますので、史跡保存の観点からの協議も必要となります。小牧山には長い歴史がありますが、基本的には織田信長が築城していた永禄期の武家屋敷の利用と、織田信雄・徳川家康軍が豊臣秀吉軍と対峙した小牧長久手の戦の舞台となった天正期の最前線基地としての利用がメインです。実際には20年程しか離れていないのですが、土地の姿は大きく変えられているのです。

発掘調査等から、帯曲輪(山城を構成するひとつの区画の土地を曲輪(くるわ)と呼びます)地区と呼ばれるこの東麓は、信長の永禄期には、信長自身及び上級武士の屋敷地であったと推測されています。昨年度の発掘調査では、屋敷地を区切る堀や井戸が見つかっています。また、永禄期には、今のような土塁はなかったのではないかと考えています。土塁ができたのは、家康の天正期です。秀吉方の攻撃に備えるため、土塁を築いたのです(そのための土としては、武家屋敷跡の土地を削ったものも使用されているようです)。この土塁の断面は、北の駐車場からの入口で見られるようになっています。土質や規模がよく分かります。

問題は、2つの時期を一度に復元展示しなければならないことです。堀も井戸も土塁も同時に復元してありますが、案内板などの解説で補っています。もうひとつ、問題になったことがあります。それは、樹木等もできるだけ本来の姿に戻さなければならなかったことです。中学校になってから植えたと思われる樹木や、今回整備工事の関係上から一部の樹木を、移植や伐採せざるを得ませんでした。伐採された樹木は、チップ化し敷地内で再利用していくことになっています。樹木だけでなく、工事で出た土も域外には持ち出さず、復元に使用するという環境に配慮した方式で工事を行っています。

復元された曲輪部分は、一見すると土のままのように見えますが、蒔き芝工法によって芝が張られています。養生期間は十分とらなければなりませんが、8月ごろには自由に入れるようになるのではと期待しています。したがって、現在は園路部分で移動していただくことになります。園路も、一見するとただの舗装のように見えますが、実は史跡に多く使われる浸透性の土舗装です。第1工区だけでも気持ちのいい眺めですが、第3工区まで完成し市の中心部に一面芝生の市民の憩いの場となった姿を想像すると、もっといい気分になります。桜の木もありますので、お花見の折にぜひ訪れてみてください。

目次へ戻る