教育委員だより No.42

                                                         平成14年10月30日

                                                小牧市教育委員会教育長  副島孝

『学校って何だろう』を読む

読書の秋ということで、今回は苅谷剛彦著『学校って何だろう』(講談社)を取り上げてみます。苅谷氏は私にとって気になる存在で、最近ずっと読みつづけている著者のひとりです(郷土総合文芸誌『駒来』に連載している拙文にも、よく登場します)。彼は、最も面白くて印象的な授業をする教師として、全国3万人の大学生から日本のナンバーワン・ティーチャーに選ばれた実績をもつ人でもあります。また最近では、学力低下論議の中で、階層分化の視点から警鐘を鳴らしている人でもあります。

「どうして勉強するの?」から始まり、「試験の秘密」、「校則はなぜあるの?」、「教科書って何だろう」、「隠れたカリキュラム」、「先生の世界」、「生徒の世界」、「学校と社会のつながり」まで、学校という世界をもとに、自分自身を理解したり、自分とまわりの人との関係を理解したり、制度や組織のはたらき、さらにはそれらを包み込んでいる大きな社会のしくみについて考える教材を提供しています。半信半疑で読んでいても、いつの間にか著者の示す材料をもとに考えている自分を見つけるのが、この人の力だと実感します。

この本は、著者が編集者から「あなたは自分のやっている学問を、中学生にわかるように書けますか」と言われたことをきっかけに書き始めたものだそうです。教育社会学者として、中学校についてどんなふうに考えていけばよいのか、どのように問題を立てればいいのかを、具体的に考えていく本です。正解は書いてないし、正解があるかのかもわからないが、ふだん特別に疑問を感じていない学校でのできごとを材料に、ちょっと違った見方をするとどう見えるかを追究する組立てになっています。

正解は書いてないとは言うものの、もちろん著者なりの考え方は明確に示されています。一例を示しましょう。生徒の問題行動について、次のように述べています。世間では「生徒の世界が大きく変わった」と言われるが、むしろ変化したのは「大人の世界」ではないのか。変化のひとつは、生徒の理解が教育の基本と言われるようになったこと、もうひとつは厳しい指導ができなくなったことだ。結果として、生徒理解を基本に、言葉や理屈でわからせる指導が中心になる。だから、理解してもらえないと生徒は不満に思うようになる。また、学校には理屈の通らないルールがどうしても残らざるを得ない。さらに、生徒たちが問題を起こすと、学校の教育がうまくいっていないから、教師がしっかりしていないからという見方が広まる。いろいろな事件が起きても、マスコミから非難されるのは問題を起こした生徒よりも、学校や教師である場合が少なくない。生徒のわがままは個性として尊重され、先生の強い指導は管理教育として批判される。こうして、教師と生徒の力の逆転が起きていると。

日本の学校は、「みんな仲良く」を基本に、生徒ひとりひとりに対してではなく、複数の生徒を集めた集団の力を利用して教育を行ってきました。だからこそ、外国に比べ1クラスの人数が多少多くても、何とか教育できたのです。ところが、皮肉なことに、この集団の力が思わぬ方向に向かいだしたと著者は指摘します。こういう生徒の世界をどうすれば変えていけるのか。著者も、実はその答えはよくわからないとしながらも、「ひとりひとり」の原則と「みんないっしょ」の原則をどうやってうまく学校という場の中におさめていくかの問題を解くことが、鍵になりそうな気がすると書きます。そして、先生や大人が問題を解決してくれると考えるのではなく、中学生自身の取り組みが大事になってくると指摘します。

かなり乱暴に省略した引用で、わかりにくいかもしれませんが、これが本書のスタイルです。中学生自身を含め、親や教師、それに地域の人や教育関係者の間で、できるだけオープンに学校について語り合うための材料を提供したい、と著者は語っています。よく言われる教育や学校についての不毛な「べき論」を前提とせず、当然だと思えるが、よく考えると答えに困ってしまう問題を具体的に考えることにより、「学校には何ができ、何ができないのか」を議論し合うことが必要だと痛感させられました。

目次へ戻る