教育委員だより No.102

                                                                  平成16年10月27日

                                                教育長 副島孝

楽しかった文化財講座

文化財講座に関しては、このたよりの44でも触れたことがあります。このときの講師は、文献史学の蓬左文庫の下村信博先生でした。今回は23日(土)に考古学の国立歴史民俗博物館の千田嘉博先生から、「信長・家康と小牧山城」をテーマに午前中講義、午後現地説明をしていただきました。両先生には、史跡小牧山整備計画の専門委員もお願いしています。千田先生のお話から、考古学が石器とか土器とかだけでなく比較的新しい時代の研究にも非常に有効な学問であること、ただ掘るだけでなく、その前提に仮説や推論があることなどを、感じることができました。

小牧山城や小牧城下町に関しては従来、永禄6年に築城され、10年には岐阜城に移ったため、信長の美濃攻略のための一時的な軍事拠点であり、城下町などもそれほど整備されてはいなかったと考えられてきました(昭和52年発刊の『小牧市史』では城下町の記述がほとんどありません)。しかし、それは結果論であり、織田信長の清須から小牧への居城の移転は必然性のあるものであり、小牧山城も小牧城下町とセットとして意図的に整備されたものだと多くの研究者も考えるようになってきていると、先生は解説されました。

小牧城下町は地籍図から推定して復元すると、長方形街区と短冊形地割りが組み合わされた、後の江戸時代の城下町の原型ともいうべきものであったようです。信長の時代にどこまで整備されたのかは明らかではありませんが、現在の小牧中学校用地整備やその後の区画整理に伴う発掘により、城下町整備が信長の時代に既に大規模に進められていたことが証明されました。

一方、城については、旧小牧中学校跡地は発掘の結果、信長の館や直属の重臣たちの屋敷が建ちならんだ地区であることがわかりました。周囲を取り囲む土塁は、その後の小牧・長久手の戦いの際に盛られたことがはっきリしました。今年度から小牧山の上部を試掘していますが、土塁の下から信長の時代と思われる石組みも出てきており、これまで知られてきた城の様子は、家康により小牧・長久手の戦いの際に、かなり改築されたものであったと予想されます。

こうしたことは、史跡公園の解説板や歴史館の特別展の展示にも解説されていますが、今回の講義で改めて実感できました。領主の館から山城へ、城と一体化した城下町へという、中世から戦国期への劇的な変化の舞台が、日ごろ見慣れている小牧山やその南の地域であることに新たな感慨を持つと同時に、全貌が明らかになる日がますます楽しみになりました。郷土の歴史を、日本全体の歴史の中に位置づけて理解することの重要性と楽しさを感じさせられた一日でした。

目次へ戻る