教育委員だより No.103

                                                                  平成16年11月8日

                                                教育長 副島孝

哲学の授業

「哲学の授業」と聞いて、どんなことを連想するでしょうか。普通は大学でしか、そんな授業は行われないでしょう。そういえば、哲学の歴史のようなことを学んだ覚えのある人もいるでしょう。しかし、『哲学の授業』(牧野紀之・未知谷)に書かれている授業は、ずいぶんイメージの違うものです。著者が浜松市立看護専門学校で行った哲学の授業を、教科通信「天タマ」(看護師をめざす人たちの学校ですから「白衣の天使のタマゴ」を略したもののようです)を基にまとめた記録です。

読み進むと、著者の一言ひとことが胸に突き刺さる感じがします。一節を引用してみましょう。 実際、世の中はでたらめなのです。しかし、皆さん自身がこのでたらめな大人の仲間入りをするのです。看護師になって、最初は学校で習ったとおり「お世話させていただく」という気持ちで一所懸命やるでしょう。しかし、そのうち仕事にも慣れ、2年たち3年たつと、給料や休暇のことの方に関心が移っていくのです。そして、知らぬ間に、今皆さんが軽蔑している怠惰な教師や実習で疑問を感ずる看護師と同じような人間になっているのです。人間が分かれるのはこの後のことだと思います。がんばっている人は、かつてそういう反省をして、出来るだけの努力をしようと考えを改めて再出発してきた人なのです。

著者は、60年安保世代の人です。当時の学生運動の失敗を、「本質論を前提にしてしまって、議論を戦術論に絞る」というやり方が間違っていたのだと考え、本質論主義(1 本質論を議論の中心に据える 2 議論はじっくりやり、行動を強制しない)を追求したと言います。「授業は教師の実力と情熱で8割決まる」とか、「組織はトップで8割決まる」、「人間には各自が自分の出来る範囲で努力する以上のことは出来ない。一人一人の小さな努力が集まれば大きな変化を引き起こすこともできる」など、耳に痛い言葉も少なくありません。

しかし、それ以上に『哲学の授業』に記述された、毎時間の授業の進め方の背後にある考え方が参考になります。カンファレンスと著者が呼ぶ3〜4人で行う「話し合い」、きちんと位置づけられた書く時間(これが「教科通信」の材料になる)など、非常に適切な授業方法を採用していて参考になります。これが60歳近くになってから始めた実践であることも特筆されます。また、多くの授業論に通じていることも、主として大学で教えてきた人とは思えないほどです。

もちろん「哲学の授業」の中身も、参考になります。「先生と生徒は対等か」、「成績を付ける基準は何か」、「寝ている生徒を先生は起こすべきか」、「『不満があるなら、直接言えばいい』という考えは正しいか」、「私生活では相手の全てを受け入れるべきか」など、テーマのほとんどは人間関係の調整の仕方に関係しています。一見考えるまでもなく自明のことと思われるテーマも、馴れ合いでも感情的対立でもない話し合いの経過を読むと、これまでの価値観を揺さぶられるものとなります。

哲学で課題が解決すると考えるのは、もちろん早計です。「なぜかわからぬが、哲学者たちの記述は完璧であっても、実際そのとおりに作動した例はない。それに引き換え、農夫の鎌は、いかなる哲学者にも記述された例はないが、つねに過ちなく切れるものだ」(『薔薇の名前』)などの指摘は、頭に入れておく必要があります。しかし、この「哲学の授業」や先日拝見した応時中学校3年生の授業での全員の集中ぶりは、最近各中学校でよく語られるようになった、日常の充実した授業を通じた生徒指導や不登校対策という言葉が、その具体的な姿を見せ始めたことを実感させてくれます。

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