教育委員だより No.177

                                                               平成1946

                                        教育長 副島孝

実に面白かった『狼少年のパラドクス』

少し前まで内田樹という人を、失礼ながら知りませんでした。『下流志向』(講談社)以来ずいぶんブームになっているので、ブロ「内田樹研究室も覗いてみました。中身の濃さに圧倒されました。実に読みでがあります。本書(朝日新聞社)は『狼少年のパラドクス』という中身のわかりにくい書名ですが、副題に「ウチダ式教育再生論」とあるように、教育問題に内容を絞ったものです。

読んでみると、めちゃくちゃ面白い(ブログの文章を編集した本ですから、ブログへのアクセス数の多さが理解できます)のです。専門はフランス現代思想などらしいのですが、経歴も変わっていて並の研究者ではないようです。勤務先の女子大などについての記述から、最近の大学は公私立を問わず大変な状況にあることがわかります。たとえば、次のような記述があります。<内は私がつけた注です>

<おそらく公立も含めて>経営的に大盤石という一部の大学を除くと、日本のほとんどの大学教職員はこの「教職員の労働強化と実質的な賃金切り下げ」の逆風の中で、教育サービスの質的向上を果たすことを義務づけられている。そんなの不条理だ、という人もいるだろう。しかし、この不条理に耐え抜くことのできない大学は遠からず淘汰される。

<大学の自己評価委員長を務めた経験から>自己評価の妥当性を最終的に担保するのは、本来なら「当事者意識」だろうと私は思う。自分がこれから運転する車のブレーキが効かないのに、「平気ですよ、これくらい」と笑い飛ばすことができる人はいない。ところが、自動車じゃなくてものが大学となると、それを気にしないでいられる人が現にいる。「あの、ブレーキが効かないみたいですけど……」という勧告に、「でもオーディオの音質は最高だから」とか「ローズウッドのパネルがきれいでしょ」というような答えで応じてくるのである。

私はこの<大学を「学生獲得ビジネス」と考え、「業界そのものの低落局面では残るクライアントの囲い込みを狙う>戦略は投下資本に引き合うだけの効果をあげることができないだろうと予測している。理由は「私みたいな人間」が一定数存在するからである。「小学校から大学院まで」を同一学校法人の中に囲い込むという戦略は日本社会が社会資本・文化資本の差による階層化の道をこのまま進むだろうという見通しの上に立っている。見通しの上に立っているどころか、その趨勢を一層強化しようとするものである。

もちろん、「学力低下」など「学びからの逃亡」問題にも言及しています。しかも、視点がユニークなのです。教育政策がうまく行かなかったからではなく、明治政府以来の近代日本の「全国民を均質化したい」というシステムがみごとに機能した結果だというのです。次のような記述があります。

十五歳の子どもたちが一日二十五分しか勉強しないのは、三十年前の十五歳の子どもたちが一日二時間勉強したのと、同じ理由からである。みんながそうしているからそうしているのである。みんなと同じじゃないと怖いからである。みんなが塾に行くなら、自分も行く。みんなが勉強して大学へ行くなら、自分も行く。みんなが欲しいものは、自分も欲しい。そういう社会なんだから、みんなが勉強しないなら、自分もしない。みんなが欲しがらないものは、自分も欲しくない、というふうになるのは、あたり前田のクラッカーである。そういう骨の髄まで他者志向の子どもたちを日本社会は作り出してきた。「そういう人間」を「みんなで」一生懸命に作り出そうとして作り出してきたのである。だから誰に対してであれ、いまさら文句を言うのは筋違いというものである。

「全級一層に個性を開花させよう」とか「均質化の圧力にみんなで抵抗しましょう」というような主張をして、「ねえ、みなさんもそう思いますよね? じゃ、みなさんご一緒に教育を改革して、個性豊かな子どもを作りましょう!」というような発想そのものが「日本的システム」を再生産することにすぎないのだということに日本の人はいつ気づくのだろうか。

読んでいて楽しい本ですが、ただ楽しんでいるわけにはいきません。さまざまな批判や提案を咀嚼したうえで、方向を定めて実践するのが教育委員会を含めて現場の責務です。新しい年度が始まりました。小牧市は「学び合う学び」を推進します。

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