教育委員だよりNo.229                                                                                            

平成2115

教育長 副島孝

英語、この悩ましきもの

個人的な理由で、この年末年始の休みは英語を勉強しなければなりませんでした。ちょうどそんな折に、高等学校英語の新指導要領案のことがニュースとなりました。話題になったところは、実際には次のような文です。「英語に関する各科目(コミュニケーション英語基礎・T・U・V、英語表現T・U、英語会話)については、その特質にかんがみ、生徒が英語に触れる機会を充実するとともに、授業を実際のコミュニケーションの場面とするため、授業は英語で行うことを基本とする。その際、生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮するものとする」。

案を読んでみて、現在の高校英語に関して何も知らなかったと思いました。現行の高校外国語の科目は、オーラル・コミュニケーションT・U、英語T・U、リーディング、ライティングとなっています(これすら私は知りませんでした)。ほかに、単語の数が増えたこともあります。単語の数はともかく、英語教育の中で接する英文の量が圧倒的に不足しているとは感じていました。

英語で授業をすることに関しては、現実に小牧市内ではGDM(Graded Direct Method)という形で行われている中学校がありますし、小学校でも(英語免許のない)担任が行っている例もあり、驚くことではありません。しかし、実際にどういう授業イメージでとらえているのか、不明な点が多すぎます。ネイティブのALTの行うような授業をイメージしているのなら、生徒たちに本当に英語の力がつくか疑問もあります。一方で、クラスルーム・イングリッシュもろくに使わず、まるで出来の悪い国語の授業かと思うような英語の授業があることも事実です。

こんな中で最近読んだものの中に、英語に関して印象に残る文章がいくつかありました。『できそこないの男たち』(福岡伸一、光文社新書)の中の、大規模な国際学会でスイスの重鎮学者によるドイツなまりの基調講演の最初の言葉。「科学の世界での公用語は、皆さん、英語であると当然のようにお考えになっていると思いますが、実は違います。科学の世界の公用語は、へたな英語(プア・イングリッシュ)です。どうかこの会期中、あらゆる人が進んで議論に参加されることを望みます」。

ご存知のブログ「内田樹の研究室」では、福翁の「はげしい」勉強法で福沢諭吉らの「利得」など度外視した勉強ぶりを引用した後の文。ところが現在の教育行政は「自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて」勉強するのが標準的な人間だと思い、それをデフォルトにしてすべての教育プログラムを構築している

打ちのめされたのが、『日本語が亡びるとき』(水村美苗、筑摩書房)の次の文。英語が<普遍語>になったことによって、英語以外の<国語>は「文学の終わり」を迎える可能性がほんとうにでてきたのである。(中略)それは、<国語>そのものが、まさに<現地語>に成り果てる可能性がでてきたということにほかならない=B

続いて、「英語教育と日本語教育」についての著者の提案があります。実際に行うとどうなるかについては、疑問が少なくありません。しかし、今後何よりも必要なのは、世界中で流通する<普遍語=英語>を読む能力であるなど、参考にすべき鋭い指摘も満載です。これからの英語教育を語る際に、この本抜きでは不可能だろうと思うほどです。

<現地語>としての日本語が発達し<国語>にまでなった日本人が、<普遍語>としての英語をどう学ぶか。かつてのような英米への憧れによる学習意欲を持たせることのできなくなった現在の子どもたちに、どのような方法で、どのような内容で(ネイティブ英語ではなく)普遍語としての英語を学ぶ意義を伝えるか。英語学習熱があおられるなか、真に必要な英語(外国語)学習のあり方が問われています。

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