教育委員だよりNo.230                                                                                            

平成21116

教育長 副島孝

安易な国際比較への警鐘

10年以上前、いじめが社会問題化した1980年代に、アメリカの学校をいくつか訪問したことがあります。そこで、いじめについて質問した際、「暴力行為はあるが」との回答があったことを思い出します。いわゆる日本でいう「いじめ」は少ないのだと受け取りましたが、実際には「ブリングbullying」という訳のせい(確かに通訳はbullyingと訳していました)だったのかもしれません。

以前小牧市で講演をしていただいたこともある、国立教育政策研究所の滝充氏の「研究や対策は世界のトップレベル―日本の「いじめ」を国際的に見る―」という論文が、『内外教育』2008/12/26号に掲載されました。「いじめ」は世界中で深刻な教育問題の一つになっているのに、日本特有の問題だと思っている人がいる理由が、この論文を読んで納得できました。

論文によれば、「いじめ」は「ブリングbullying」と訳されるのが一般的だが、この語には「暴力行為」という意味あいが強い。日本の仲間外れや無視のような行為は海外では少ないと言われるが、そんなことはない。嫌がらせを意味する「ハラスメントharassment」という語を用いて尋ねると、経験があると答える。「ブリング」の語から、こうした行為を思い浮かべてもらえるとは限らない。そこが問題なのだというのです。

同じように児童虐待に関しても、我が国では殴るけるのような物理的な虐待に比べて、目に見えにくい精神的な虐待が軽視されやすいのは、「虐待」という言葉の持つイメージのせいだ、と指摘します。納得できる指摘です。いじめに類する行為の研究や対策で、日本が海外に先んじることができた要因は、従来の暴力行為とは明確に一線を画す「いじめ」という語を使ったことにある、とも指摘します。

日本のいじめの多くは、虐待におけるネグレクト(無視)同様、「第三者の目には(行為も傷跡も)見えにくい」形で行われている。こうした状況の中では、問題に事後的に対応するのではなく、問題を起きにくくするしかない、という指摘も重要です。つまり、すべての子どもが加害者にならなくて済むよう、すなわち子どもに健全な社会性が育まれていくよう、教育の根本的な在りようを改善するしかないとの主張ですが、大賛成です。

手軽なスキル訓練等でお茶を濁すのではなく、本当に社会性が育まれているのかを確かめながら、地道に日々の教育を行う姿勢なしに、いじめを減らすことはできない、と結んでいます。道徳や特活の時間に指導したからといって、身につくものではない、と言われているようです。授業も含めた学校生活、日常生活の中で当たり前のように行われて初めて身につくという意見には、我が意を得たりというところです。また、安易な国際比較で方向性を誤る危険性にも、注意しなければと感じました。

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