教育委員だよりNo.244                                                                                            

平成2172

教育長 副島孝

「市民」や「子ども」という言葉

ある会合で聞いた言葉です。「織田信長サミットを小牧市で開くそうだが、小牧山は家康とは関係が深いが、信長とは全く関係がない。後からこじつけたものだ」とある小牧市民(それも複数)が言ったというのです。それも学問的にも裏付けのある織田信長と小牧山城・小牧城下町との関係を描いた、NHKの番組:金とく「織田信長 まちづくりの野望」も見た上での言葉だというのです。

その言葉を聞いて、私はむしろ少し頼もしく思いました。それは最近いろいろな場で聞かれる「市民」という言葉に、違和感を受けていたからです。何か働きかけをすれば、すぐその方向に動く対象として「市民」という言葉をつかわれているように感じられてならなかったからです。この意味の「市民」は、行政の側からだけでなく、いわゆる市民団体と呼ばれる側の人たちからも聞かれます。だから、「人間はそんなにすぐに認識が変わるような存在ではないぞ」と、再確認できたような気がしたのです。

同じような感じを受ける言葉に「子ども」があります。何か教えれば、すぐにそのように考え行動する対象として、「子ども」という言葉をつかう人がいます。そういう人間の見方をしている人の「市民」や「子ども」は、自分で考え、悩み、とりあえずの決断をし、また迷って認識を改めたり、確かめたりする主体としての人間の見方とは違うように感じます。

こんなことを考えるのは、授業でこれだけ指導したのに、どうして理解してくれないのだろうとか、わかってくれたはずなのに、こんな問題に間違えるのはなぜだろう、と長年悩んできた経験から来ていると思います。子ども自身はどう考えるのだろう、どう受け止めるだろう、と考えることはせず、こう教えたらこうなるはずだ、という考えだけで授業を考えていたら、たぶん感じなかったことだと思います。

最近、授業の計画を示すものを、この地方では「指導案」と呼んでいるのは象徴的だ、と指摘されました。「授業案」が一般的な用語のようですが、古くは「教案」と呼ばれたこともありますし、最近では「学習デザイン」などという呼び方をする人もいます。授業に指導は必要ない、などと言っているのではありません。無意識の内に呼び方の中に、つかう人たちの思想が込められていると、感じさせられたということです。

動かされる対象としか見ていない人は、「市民」や「子ども」を都合よくつかっていると感じることがよくあります。気持ちの感じられない、通り一遍の言葉は力を持ちません。簡単には自分の思うようにはならない存在だ、と考えるところから取り組むからこそ、認識を動かす力が生まれるように思います。少し自分自身の行動を振り返ってみなければと感じています。

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