教育委員だよりNo.254                                                                                            

平成21114

教育長 副島孝

「学校文化」という言葉

ひょんなことから、『ニューカマーの子どもと学校文化』(児島明著、勁草書房)と『外国人生徒とのためのカリキュラム』(清水睦美・児島明編、嵯峨野書院)という2冊の本を読みました。前書は愛知県、後書は神奈川県のある中学校を対象とした研究書です。前書の学校は日系ブラジル人中心で、後書の学校ではインドシナ難民や中国からの帰国者、日系南米人など多様で、日系ブラジル人はむしろ少数です。

外国人生徒(中学校をフィールドとしたのは、小学校以上に切実な対応が求められているからでしょう)の立場からも問題を見つめること、学校(や行政や地域)がどう対応したかなど、どちらも何年間もかけて観察し関わり研究した成果だけあって、外国人児童生徒の多い小牧市にとっても非常に参考になるものでした。しかし、もっと考えさせられたのは、「(日本の)学校文化」の問題でした。

「○○文化」というのは、元来はエスノロジー(民族学)の言葉でしょうが、一般にもよく使われます。当事者が意識していなくても、それぞれの民族や組織等には固有の文化があります。後書の記述を借りれば、こうなります。「日本には日本固有の学校文化がある。こういう学校文化の下支えによって、日常の学校の教育活動は支障を来さずに淡々と行なわれていく。忘れ物をしない、時間を守る、親が子どもに宿題をやらせる、親がPTAの会合に出る等々、こうした学校文化(学校に関わって『当たり前』とされる事柄)が、学校に関わる人々によって共有されていることによって、学校は学校として成り立っているのである」

外国人生徒(しかもかなり多数)の増加により、「生徒としてみんな一緒に扱う」(裏から見れば「同化圧力」や「一斉共同体主義」)と「文化の違いを理由に外国人生徒の逸脱の許容する」(裏から見れば「指導の差異の固定化」)との間で、(個々の指導者の間でも、日本人生徒への指導においても)対応がゆれます。両書の優れている点は、それを克服(しようと)する取り組みまで描かれていることです。特に後書の、「選択国際」の取り組みはすばらしい。

「学校文化」は、否定的に使われる場合も少なくありません。そういう批判を受けて当然という面もあります。しかし、学校の中で「現職教育や授業研究(両者とも外国語の論文でも、そのままローマ字表記されることがあります)」によって教師が学び合ったり、教師や学校が研究実践を出版したりする文化は、日本の学校の誇りでもあり、特長でもあります。良い点は伸ばし、悪い点は改めるという当たり前の対応が、ここでも必要なようです。

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