教育委員だよりNo.259                                                                                            

平成211218

教育長 副島孝

今年になって感じたこと

一部の人にしか話していませんでしたが、今年の4月から大学院に通っています。いわゆる教職大学院ではなく、研究者を育てる普通の意味での大学院です。勤務時間後の週に数日の通学ですので、直接仕事に影響するわけではありませんが、間接的な影響は免れません。そこで、現実の仕事にもプラスになる教育学部に入学しました。新しい刺激があるというのは素晴らしいことだ、と感じています。

入学後これまで真剣には考えてこなかったことを、いくつか考えるようになりました。例えば、「指導」と「学習」と「学び」についてです。学校の研究テーマに、よく使われる言葉です。「指導」と「学習」の違いは、誰にもわかります。教える側から見るのか、学ぶ側から見るのかの違いです。では「学習」と「学び」はどうでしょうか。あまり真剣に考えていない人の方が多いのではないでしょうか。最近の流行りだから「学び」を使っている人や学校も多いように思います。

私なりの理解では、「学習」は子どもを学級などの集団としてとらえるのに対し、「学び」は子ども一人ひとりに視点を当てるところに違いがあるととらえています。しかし、「学び」を標榜しながら、子ども一人ひとりには関心のない授業を行っている学校もあります。そういう学校での授業後の協議会で、子どもの固有名詞が出てこないのは当然のことなのかもしれません。

もう一つ考えるようになったのは、「学び合い」と「技法」の問題です。これは反省でもありますが、市松模様の男女4人のグループなどということを強調しすぎていたのかもしれません。「技法」は、どうしてもエスカレートしがちです。グループの構成に過度にこだわったり、司会者などの役割を割り振ったりする学校やクラスが出てきます。実施しやすくはなりますが、子ども同士の自然な「学び合い」からは離れていくことが多いように感じます。

4人グループとかコの字型の机配置でも、十分に技法的です。さらに細部にこだわりすぎることが、「学び」への注目からそれてしまう結果を招くのなら残念です。しかし、型を突き抜けたレベルの授業を、時折見られるようになったことは喜びです。子どもたちが発言者に対して視線を向け反応しながらも、表面的で深くは受け止めていない教室もある一方で、それぞれが様々な方向を見やったりテキストなどを読み直したりしながらも、真剣に発言を受け止め必死になって考えている教室も見ます。「技法」を突き抜けたレベルの授業の出現は、次の段階が見えてきた証だと感じています。

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